成長させてくださるのは神だとも、子どもの成長は、親が助けるべき、それはよいのだけど、その前に、親自身が、自分自身の姿を徹底的に掘り下げて知るべきなのだ。本来親とは、どうあるべきなのかも。
親も子も、神によって成長させられなければ、赤子と同じ、何も分かっていないのだ。分かっていない親が教えて、子どもが分かるはずはないのだ。
霊的な真理を知ることがなければ、正に盲目の教師だ。しかも、
恐れおののいて、自分の救いを達成せよ、とパウロは言う。人は、信仰を告白して、救いを受けて、それでおめでとうではない。肉体が死ぬまで、生涯かけて、この救いの達成のために、恐れおののきつつ、努力せよ、。と。
自分の子どもに、教え子に、語り教えた。けど、成果が出なくても、その先は、その相手と、神に任せるしかない。それが、教育の原点、後は、背後で祈り支えるしかない。本人の努力、しかも神に助けられて、を見守り、、。
強制し、命令してはかえってぶちこわし、なのだ。心を病む人々の問題、それは、この、個人個人が、自分と神の関係の中で、成長するのを見守らないで、邪魔ばかりする教師や親の問題なのだ。娘の問題は、私の問題なのだ。
恐れおののいて自分の救いを達成せよ
信仰は、受け身だけではない。恐れおののいて自分の救いを達成せよ。これは、喜びの書と言われる、ピリピ書のことばだ。ただ喜び、感謝して居るだけではない。ヤコブ書にもあったけど、信仰には、行動がともなわなければ、。
だけど、それは、主の前に出て、主より先にやることではない。あくまでも、主に聞き、祈りの中で、主の示されることを聞いてから、行動を決めなければ、毎日、主に聞いてから、、それが肝心、。
徹底的に、自分自身の思いを主の前に注ぎだし、自分の姿をしっかり覚えつつ、主の前にへりくだって、どうするべきかを決める姿勢、それ抜きで、自分で考えて、どんどん行動するなら、主の居ないキリストの教会になってしまう。
「 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、
へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。
それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができない
とは考えないで、
ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、
実に十字架の死にまでも従われたのです。
それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
それは、イエスの御名によって、
天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
すべての口が、『イエス・キリストは主である。』と告白して、
父なる神がほめたたえられるためです。そういうわけですから、愛する人たち、
いつも従順であったように、私がいるときだけでなく、私のいない今はなおさら、
恐れおののいて自分の救いを達成してください。」 ピリピ2:3-12(新改訳)
神の栄光が、この地を満たし、この日本を癒し、祝福されることを、
主の喜びが、あなたの上に注がれますように。


